教員リレーコラム
「 To be, to be, Ten made to be. 」
石黒 茂 [作業療法学専攻]
梅雨の合間を縫って、高山の家へ草取りに出かけた。放っておくと、あっという間に庭中が草だらけになる。そのため、定期的に草取りをしなければならない。以前にも書いたことだが、わが家では妻が化学薬品の影響を心配するので、除草剤は使えない。せめてもの抵抗で電動式の草刈り機を使うようにしたが、細かなところまでは行き届かず、最後は1本1本を手で抜くことになる。これには手間がかかる。要する時間と労力から考えると、非効率であること極まりない。
草取りに疲れ、今にも雨が降りそうな空を見上げると、褐色に3本の白いラインが目立つチョウが飛んできた。ホシミスジである。この種の仲間は、飛び方がゆったりとしている。翅を開いたまま滑空する姿を見ていると、同じような色・形をしたチョウがもう1頭飛んできた。ホシミスジよりも体が小さいコミスジであった。
ホシミスジやコミスジなどのミスジチョウの仲間は、どれも褐色の翅に3本の白い帯がある。それぞれに大きさは違うが、チョウをよく知らない人、興味がない人には、みな同じ種類のチョウの大小にしか見えないだろう。しかし、違いは大きさだけでない。よく見るとその白帯の模様に違いがあり、形態や行動にも違いがある。
チョウに限らないが、生物の種は、博物学者、分類学者だけでなく多くのアマチュアの研究者らによって、長い年月を掛けて膨大な標本が集められ、形態や行動が詳細に観察・記録されることにより区別され、種名がつけられてきたものが多い。それでも異なる種の境を決めるのは容易でなく、生物を分類し種名をつけることも、考え方によっては効率の悪い作業である。
現代の生物学は物理・化学的手法でDNAを扱うことが主流となり、生物の分類さえDNAの分析の力を借りるようになっている。そして、かつて生物学の主流であった分類学は、いまや学問の隅に追いやられてしまっている。そのためか生物の名前を覚えることが軽視され、最近の生物学を学ぶ学生は生物の名前を知らない。種名を知ることによってその生物に興味をもち、種の個性が分かり、生物の多様性を知り、生物の本質が見えてくると思うのだが。種名を知らずして、生物学の本質が理解できるのだろうか。
抜いても、抜いても生えてくる庭の草を見て、草取りすることは無駄な作業ではないかと思うことがある。しかし、誘惑に負けて手を抜けば、後々が大変である。大変なことになってはじめて、その意義や効果が分かるのである。少しずつ継続して草を取っておけば、雑草で庭に手をつけられなくなることはないだろう。学問の世界だけでなく学校教育にも、草取りと同じように非効率だと思われながらも、地道に継続的に行うことによって、その世界を支えているもの、成り立たせているもがあるなあと思いながら、1本1本草を抜く作業を再開した。